中譯 釋蒙光 2025年6月13日


御裁断御書
祖師聖人御相伝一流の肝要は たゝ他力の信心をもて本とすゝめ玉ふ その信心といふは 経には 聞其名号 信心歓喜 乃至一念とゝき 論には 一心帰命と判す 故に聖人は論主の一心を釈して 一心といふは 教主世尊のみことを ふたこゝろなくうたかひなしとなり これすなはち真実の信心なりと のたまへり されは祖師よりこのかた代々相承し 別して 信証院の五帖一部の消息に この一途をねもころに教へ玉ふ その信心のすかたといふは 何のやふもなく もろ~の雑行雑修自力のこゝろをふりすてゝ 一心一向に阿弥陀如来 今度の我等か一大事の後生 おんたすけ候へと たのみ奉る一念の信まことなれは 弥陀はかならす遍照の光明をはなちて その人を摂取したまふへし これすなはち当流にたつるところの一念発起平生業成の義 これなり この信決定のうへには 昼夜朝暮にとなふるところの称名は 仏恩報謝の念仏とこゝろうへし かやうにこゝろえたる人をこそ まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふへきものなれしかるに近頃は 当流に沙汰せさる三業の規則を穿鑿し 又はこの三業につきて 自然の名をたて 年月日時の覚不覚を論し 或は帰命の一念に妄心をはこひ または三業をいめるまゝ たのむのことはをきらひ 此余にも まとへるもの是有よし まことにもて なけかしき次第なり ことに聖人のみことにも 身口意のみたれこゝろをつくろひて めてたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力とまふすなりと いましめたまへり 所詮已前はいかやふの心中なりとも 今より後は 我わろき迷心をひるかへして 本願真実の他力信心にもとつかんひとは 真実に聖人の御意にも相かなふへし さてその上には王法国法を大切にまもり 世間の仁義をもて先とし うつくしく法義相続あるへきものなり
[右之通令裁断候条永本意不可取失者也]
[文化三(丙寅)年十一月六日]
[釈本如(花押)]


御裁斷御書
釋蒙光 中譯
祖師聖人御相傳一流之肝要(根本要義),唯以他力信心為本垂教。此信心者,經(《大無量壽經》)云「聞其名號,信心歡喜,乃至一念」,論中判作「一心歸命」。故聖人(親鸞)釋論主(天親)所言「一心」曰:「一心者,即於教主世尊(釋尊)所言(法藏比丘四十八願之誓約),無有疑貳之心。此即真實信心也。」 如是自祖師以來,代代相承不絕,信證院(蓮如上人)尤於五帖一部(《御文章》)之消息中,諄諄教誨此唯一大道。此信心之相,在不作任何思慮籌度,徹底捨棄種種雜行雜修自力之心,唯一心一向信憑阿彌陀如來救度我等今度之後生一大事,此一念之信真實,彌陀必放遍照之光明攝取是人無疑。此即當流(淨土真宗)所立「一念發起,平生業成」之旨也。
此信心決定之後,晝夜朝暮所作稱名,當體認於心為「報謝佛恩之念佛」。如此領解者,方是真實秉持宗門信心之正義者也。
然近來卻有學人,妄自穿鑿杜撰當流所無之「三業規則」,或於三業妄立「自然」之名,論年月日時之「覺與不覺」;或於歸命一念中夾雜妄心,或僅執著於三業之相而排斥「信憑」之本,此外,聽聞尚有其他編織巧說之論,誠悖逆非理,令人歎息之相也。
聖人(親鸞)早已示知:「以爲整飭身、口、意三業行善可往生淨土,此即所謂自力也。」如是告誠吾等也。
總之,無論之前持有何等心態,從今而後,若能翻轉迷心,信憑本願真實之他力信心者,方真正相應聖人之本意也。
此外,尤須尊奉王法、國法,以世間仁義為先,方能莊嚴正法,令相續流布。
[上述所令裁斷之事,永為基準,不得有失本旨。]
[文化三(丙寅)年十一月六日(西元1806年)]
[釋 本如(花押)]


御裁断申明書
抑当流安心の一義といふは 聞其名号 信心歓喜 乃至一念をもて 他力安心の依憑とはするなり 此ことはりをやすく知らしめんかために 中興上人はさしよせて もろ~の雑行雑修自力の心をふりすてゝ 一心に阿弥陀如来我等か一大事の後生 御たすけ候へとたのめ とは教へ玉へり よりて弥陀をたのむものは決定往生し たのまぬものは往生不定なりと 前々住上人も仰られたり 又前住上人も みつからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解なきことを 深くいましめ玉へり 此一念といふは 宿善開発の機 その名号を聞持する時なり 此たのむ一念の信心なくは 今度の報土往生はかなふへからすと 相承しはへりき しかるに近来門葉の中に 此たのむ一念につきて 三業の儀則を穿鑿し 或は記憶の有無を沙汰し 殊に凡夫の妄心をおさへて金剛心と募り 或は自然の名をかり 義解なといふ珍しき名目を立 種々妄説をなして 道俗を惑はしむること 言語道断あさましき次第ならすや 是予か教示の不遍ところにして 不徳のしからしむるにやと 朝に夕に寝食をわすれて ふかく心をいたましむる処なり おの~いかゝ心得られ候や 上に示かことく 弥陀をたのむといふは 他力の信心を安く知らしめ給ふ教示なるか故に たすけ玉へといふは たゝ是大悲の勅命に信順する心なり されは善導は深く機を信し 深く法を信せよと教玉へり 先我身は極悪深重の浅ましきものなれは 地獄ならてはおもむくへき方もなき身なりと知るを 深く機を信するとはいふなり 又かゝるいたつらものをあはれみまし~て 願も行も仏体に成就して すくはんとちかひ玉へる御すかた すなはち阿弥陀如来なりとおもひて 我往生を願力にまかせ奉る心の少しも疑なきを法を信するとはいふなり されはいたつらに信しいたつらにたのむにはあらす 雑行雑修自力をすてゝ 二心なく信するか すなはちたのむなるか故に 其心を顕はして たすけ玉へと弥陀をたのめとは教玉ふなりき さらに凡夫不成の迷情を思ひかたむる一念を 往生の正因と教玉へるにはあらすと知へし 此義は別紙にも述候得とも 猶まとひのとけさらんともからもあるらめと 重て筆を染るものなり かまへて末学の書鈔等によりて 一流真実の義をとりまとふへからす されは事に大小あり 業に緩急あり 今示す処は当流の肝要 我人生死出離の大事なれは 是よりいそくへきはなく 又是よりおもきはあらさるへし もし猶我執をつのりてあやまちをあらためすは 永き世開山聖人の御門徒たるへからさるものなり こひねかはくは心得惑たる人々 今日より後はいよ~妄情をひるかへして 相承の正義にもとつかるへきことこそ肝要に候へ 古語にも 知其愚非大愚也 知其惑非大惑也と いへり されはみつからまとふとしりてまとふものあらし 惑ふはまとひを知らさるか故なり かゝる人は明者の指南にあらすは 誰か其惑をとかんや 此むねよく~分別あるへく候 一息不追千載長往ならひなれは いそきて信心決得有へく候 さて信心決定のうへには 行住座臥に南無阿弥陀仏~と 仏恩を報謝し奉り 王法国法に違戻なく 仁義之道を相嗜 如法に法義相続ありて 今度の往生を待うる斗の身となられ候はゝ 予か本懐是にすくへからす候なり あなかしこ~
[文化三丙寅稔十一月五日]
[龍谷第十九世釈本如(花押)]





御裁断申明書
釋蒙光 中譯
夫當流(淨土真宗)安心之一義,唯以經云「聞其名號,信心歡喜,乃至一念」為他力安心之依憑。為令此理顯明易解,中興上人(蓮如)垂教曰:「當盡捨雜行雜修之自力心,唯一心信憑阿彌陀如來救度我等後生一大事!」前前住上人(存覺)亦云:「信憑彌陀者決定往生,不信憑者往生不定。」前住上人(蓮淳)深誡:「若未確定信憑彌陀之一念領解,往生難成。」
此「一念」者,乃宿善開發之機聞持其名號之時也。此信憑一念之信心若無者,今度之報土往生成就必不可期,此代代相承之旨。
然近來門徒中,竟有就「信憑一念」穿鑿身口意三業儀則,或論議記憶之有無;甚者妄以壓制凡夫妄心爲「金剛心」,或假「自然」之名、立「義解」等怪異名目。種種妄說惑亂道俗,實乃言語道斷之事!是予教示未遍、不德之故,朝夕憂思,寢食難安,諸人當體解之。
如上所示,「信憑彌陀」之教,本為令眾生易知他力信心。信憑救度者,唯是信順大悲敕命之心也。故善導大師教示當深信機,深信法。
首先知我身乃極惡深重膚淺之輩,捨地獄外別無歸處,謂深信機也;
又思哀憫此等徒然無用之輩,立誓救度,成就願行於佛體之相即是阿彌陀如來,我往生全托佛願力,心無絲毫疑滯者,謂深信法也。
故知決非輕率迷亂之信,乃捨棄雜行雜修自力,以無貳之心信順,即名信憑。爲顯明此意,故教示:「當信憑彌陀『救度我』。」尤須知者,偏執凡夫未斷迷情之一念為往生正因,決非聖教所示之義,當深誡之!此義雖於別紙已有所述,猶慮有未解之惑,故重筆申明。
切不可依末學書鈔等妄取一流真實之義。須知事有大小,業分緩急,今所示者乃當流肝要、我人生死出離之大事。無急於是者,亦無更重於是者。若猶我執深重、不肯改悔己過,則永世不得為開山聖人(親鸞)之御門徒也!伏請心得惑亂之人,自今日後,翻轉妄情,歸相承正義,實爲至要!古語云:「知其愚者非大愚,知其惑者非大惑。」(莊子·天地)然則,迷者實不自知其迷也。如此人者,若無明者之指南,誰能破其癡惑耶?此尤當深加體察。
「一息不追,千載長往」(摩訶止觀卷四),此故,當急求信心決得!既得信心決定,於行住坐臥稱「南無阿彌陀佛」以報謝佛恩,無違王法國法,好行仁義之道,如法相續慧命,以微末之身待今度之往生。若能如是,是予之本懷也。
慚愧慚愧 敬具。
[文化三年(丙寅歲)十一月五日(西元1806年)]
[龍谷第十九世門主釋本如(花押)]


本願寺派第十九代門主本如上人(1778-1826)生平:
一、家族背景與早年經歷
1.出身與名號
本如上人俗名光攝,童名孟,法號碧山、不捨,諡號信明院。生於安永七年(1778年)十月二十四日,卒於文政九年(1826年)十二月十二日,享年49歲。
◦家族關係:為第十八代門主文如上人之次子。
◦政治聯姻:寬政八年(1796年)與公卿二條治孝之女誠結婚,強化了與朝廷貴族的紐帶。
2.早年教育
◦天明七年(1787年)成為關白九條尚實的猶子(養子),進入貴族教育體系。
◦寬政四年(1792年)正式得度出家,獲”法眼”僧位。
◦文化修養:師從畫家吉村孝敬,與圓山應舉、吳春等京都畫壇名家交流,精通雅樂、和歌、茶道。

二、繼任門主與教團治理
1.繼位過程
◦寬政十一年(1799年)因文如上人圓寂,以22歲之齡繼任第十九代門主。
◦寬政十二年(1800年)獲朝廷任命為大僧正(佛教最高僧階)。
2.三業惑亂事件的處理
◦事件背景:本願寺派內部因教義分歧爆發”三業惑亂”,主張”三業歸命”(強調身口意三業修行)的學派與正統”信樂歸命說”(強調他力信心)激烈衝突。
◦幕府介入:享和二年(1802年)後,教團內部分裂加劇,幕府寺社奉行脅阪淡路守介入裁決。
◦教義裁定:
•文化二年(1805年),本如上人裁定”新義派”(三業歸命說)為”非正義”。
•文化三年(1806年)發佈《御裁斷申明書》《御裁斷御書》,明確”信樂歸命說”為唯一正法。他引用親鸞聖人”無疑之信樂”與蓮如上人”後生御助”之教,駁斥三業歸命派”論信心決定年月”的謬誤。
◦懲處措施:本願寺被罰閉門百日,相關學派遭鎮壓;改革僧職制度,廢除”能化職”,改設一年輪替的講師制,選拔學養優異者任教。

三、文化貢獻與個人修養
1.學術與藝術成就
◦文獻整理:參與前代法如上人的聖教刊行事業,校勘《真宗法要》並撰寫跋文;天明七年(1787年)刊行《領解文》附其父文如上人識語。
◦書畫造詣:以”碧山”為號創作書畫,作品融合禪意與文人畫風,現存日記《覬錄錄》(1775-1778年)為研究江戶後期寺院生活的重要史料。
2.社會活動
◦多次主持貴族葬禮與法會,如文政九年(1826年)主持岳父二條治孝葬儀(歸途中發病)。

四、晚年與歷史評價
1.嗣法安排與圓寂
◦因無親生子女,文政二年(1819年)提前立顯證寺光沢(廣如上人)為嗣法。
◦文政九年(1826年)十一月主持岳父葬禮後發病,十二月十二日圓寂;翌年正月十七日舉行葬儀,諡”信明院”。
2.歷史影響
◦教義正統化:終結持續十年的”三業惑亂”,鞏固本願寺派”他力信心”的核心教義,避免教團分裂。
◦制度改革:講師輪替制打破僧職世襲,推動學術專業化。
◦文化傳承:其藝術交遊促進真宗與京都文化圈的融合,提升門主的文化權威。

《御裁斷御書》《御裁斷申明書》在真宗教史上的意義
一、文獻背景:三業惑亂的教義危機
事件本質
19世紀初,本願寺派爆發「三業惑亂」——以「三業歸命說」(強調身、口、意三業修行)為核心的學派,挑戰傳統「信樂歸命說」(親鸞聖人「他力信心」思想)。前者主張需通過具體修行行為累積功德,後者則強調「絕對他力」的信心決定性。
分裂規模:教團分裂為「正義派」(正統信樂說)與「新義派」(三業說),波及數十萬門徒,動搖本願寺權威。
幕府介入:享和二年(1802年)後,幕府寺社奉行脅坂淡路守介入仲裁,反映宗教爭端已危及社會穩定。
本如上人的裁斷契機
文化二年(1805年),第十九代門主本如上人正式裁定三業歸命說為「非正義」,並於次年(1806年)頒布《御裁斷御書》與《御裁斷申明書》,以門主權威終結長達十年的教義紛爭。


二、兩份文獻的核心內容與關係
(1) 《御裁斷御書》——教義終裁的權威宣告
性質:正式判決書,以門主名義宣告三業歸命說違背親鸞真意,明確「信樂歸命說」為唯一正法。
教義依據:
引用親鸞聖人「無疑之信樂」概念,駁斥三業派「論信心決定年月」的謬誤(即信心需時間累積)。
重申蓮如上人「後生御助」教誨,強調往生淨土全憑彌陀願力,非修行之功。
效力:具強制性,要求全派僧俗放棄三業說,違者視同破門。
(2) 《御裁斷申明書》——教義誤區的深度剖析
發布時間:與《御裁斷御書》幾乎同時(文獻記載其日期早一日),二者互為補充。
核心論點:
剖析三業派謬誤根源:指出其誤解「たのむ一念」(信憑一念)的語義,將「信心」曲解為「自我修行」而非「完全歸命他力」。
闡釋信心本質:引用「二種深信」(深信自身無力解脫+ 深信彌陀願力絕對),詳解「願力信憑之心」的內涵。
實踐指導:強調「誤りと知って誤るものはない」(誤者不自知其誤),呼籲信徒依明師指導回歸正法,體現懇切牧者精神。
(3) 兩書關係:裁斷與教化的雙重權威
互補性:《御書》定調裁斷結論,《申明書》提供教義釋疑與實踐指南,形成「法理+教育」的完整體系。
文獻地位:超然師《反正紀略》將二者並列為「裁斷雙書」,後世視為真宗教義正統性的法典級文獻。

三、宗教史上的劃時代意義
(1) 終結教團分裂危機
統一教義:徹底否定三業歸命說的合法性,避免本願寺派分裂為多個宗派(如淨土真宗高田派的分立模式)。
權威重塑:門主通過教義裁斷重振領導力,奠定江戶後期本願寺「教政一體」體制。
(2) 確立「他力信心」的絕對性
教義純化:清除「自力」殘餘思想(如三業修行論),回歸親鸞「絕對他力」核心。
例證:《申明書》以「二種深信」詮釋「信憑願力」,將信心定義為「全無自我計度」的徹底歸命,與親鸞《教行信證》「信心正因」一脈相承。
後世影響:成為明治維新後「真宗教義復興運動」的理論基石,影響至今。
(3) 推動教團制度變革
僧職改革:裁斷後廢除世襲「能化職」,改設「講師輪替制」(一年一任),打破學閥壟斷,促進教學專業化。
懲戒體系:對三業派學者的處分(如閉門百日、剝奪職位),建立門主對異端學說的裁量權先例。
(4) 宗教文獻學的典範
文本權威性:兩書被收入《真宗聖教全集》,與親鸞、蓮如著作並列,彰顯門主文獻的教義解釋權。
比較宗教史意義:
類比基督教《特利騰大公會議法令》(1546年)裁定正典,真宗通過門主裁斷維護教義純粹性。
區別於《南特敕令》(1598年)的宗教寬容精神,真宗裁斷體現「正統排他性」。

四、與其他宗教文獻的對照性啟示
比較維度 | 《御裁斷雙書》(真宗) | 對照案例(其他宗教) | 差異核心 |
教義裁定主體 | 門主權威裁斷 | 基督教大公會議(如特利騰會議) | 單一領袖vs. 集體決議 |
異端處理方式 | 閉門懲戒+ 學派壓制 | 《米蘭敕令》寬容多神教 | 內部純化vs. 外部共存 |
正典化過程 | 門主文獻升格為準正典 | 《啟示錄》納入新約正典的爭議 | 行政決斷vs. 歷史篩選 |
教義詮釋方法 | 回歸祖師原意(親鸞/蓮如) | 《歌羅西書》重釋割禮真義 | 權威註釋vs. 經文新解 |

結論:真宗史上「法難鎮護」的雙柱
《御裁斷御書》與《御裁斷申明書》不僅平息了江戶後期最大教義危機,更從三方面重塑真宗發展軌跡:
教義層面:淨化他力信心說,清除自力殘餘,奠定現代真宗教義根基;
制度層面:強化門主裁斷權,改革僧職體系,避免學閥壟斷;
文獻層面:創建「裁斷-釋義」雙文本模式,為後世教爭提供判例範本。
其歷史意義堪比基督教《奧格斯堡信綱》(1530年)——以權威文獻定義信仰核心,終結分裂危機,並在後世宗教實踐中持續發揮準正典功能。